昭和54年12月12日  -  朝の御理解
 【入力者: 末永 満】

御理解第92節


 これは布教に出た先生方に対する御理解だと思われますけれども。ごひれいを頂く、神様の生き生きとした働きが受けられるという意味なんです。ですからそういうやはりお広前にご縁を頂いておる人達がなら皆がそういうおかげによくされるかというとそうでもないのです。結局やはりもりもりの力にもよることながらお参りをしておる(さんけい者)の一人一人のやはり心とか心がけとかその修行によってそのおかげが頂かれるということなんです。ね。
 あの人はおかげを頂きよるなさるとに私はおかげを頂かれんというのは結局自分自身の信心を再検討してみらなければいけんのです。ね。それにそういうごひれいによくしごひれいを頂いてそのごひれいを又、自分が頂き現すというような生き方にならないのとおかげにならんです。
 昨日は(?)御本部参拝をさせて頂いた方達のまぁ、いろいろなご無礼話というか、まぁエピソドのような(?)がいくらもございました中に私もちょっとあいさつだけしたですけれども。その京都の梅山先生がおかげ頂いておりました。それでまぁ、私にまぁ、お届けしたかったんでしょうけれども、私がこう(?)(?)しとるもんですから、ただあいさつだけでしたけれど、梶原先生に「親先生にお届けをお礼を申し上げてくれ」と言うてあの、お礼のお届けがあったという話を昨日あの話そのことを昨日梶原先生がお届けしたしております。
 もうおかげを頂きました私の方ではあの「おかげの泉」でも大変信者がおかげを受けておりますということであった。もう兎に角癌の人が助かる。癌を「おかげの泉を読んで。この血に入れ替えをしかければならないというまぁ、大変難儀な病気だそうですが、それがおかげを頂いたといったようなまぁ、おかげを頂いておりますからまぁ、親先生によろしゅうということだったんですね。文男先生を通してあそこに送っております自分が読んでおる「おかげの泉」を話もするでしょう又、読んでももらっておるのでしょう。これならやっぱり合楽の一つのごひれいだと思いますよね。ね。
 (?)昨日は川上さんがあのように毎日日参してみえますが、もうこの度もういつものことながら大変おかげを頂きました。もう私不安の方達があっちこっちお話をしておる人達が合楽の川上さんにお会いができる、お話が頂けれると言うて私を探しておって下さる、待っておって下さる。まぁ、一生懸命そのお話させて頂いておりましたら、ちょっと川上さんその話を待って下さいち。私共が教会先生を連れてくるから家の教会で先生にお話して下さいといったようなことであったと言うのですね。
 だからその中に話を聞いたござる方達は最近ずっと「おかげの泉」を川上さんが送ってあげなさいますですね。そんな何かあちらで(?)方達に。ただあちらではあの今、御造営があっておるということですから、まぁわずかですけれどもこれはあなたの名前でお供えをして下さいと言うて、現金を持って頂いて出される、たんそうですが、それで先生何と五万円でしたこう言う。ですから五万、一万円と言うてもやっぱいくら金の値打ちがないというても大金を大金ですけれども、しかも他所の教会でまぁ、御大祭度にお会いするその川上さんに、に会うて合楽の話を聞かれる。これは何かも正しく合楽のごひれいだと思うです。ね。ですからね、やはり川上さんがおかげを受けられるというのもね、そのひれいの受けてそれを現していかれるところにおかげがある。例えば合楽の教会にごひれいを頂いておると致しましたら、そのごひれいを受けて皆さんが現す信心にならなければやはり皆さんも本当のおかげになってこないと思うです。
 いいえ、それも私の名前が(?)、あんたの名前でお供え致しますと言うて、昨日まぁ、その方の名前でお供えをなさっておられますがです。今度はほんとに他所の教会でご信心をなさっておられる方が新聞やらあれで「おかげの泉」やらで分かられて、合楽の御造営にお供えさせて下さいと言うて、送ってまいります。やはり合楽のごひれいだと思うです。ね。
 ですから、まぁそういうごひれいが合楽に輝いておるというても、ならここでおかげを頂こう(?)皆さんもね、やっぱりそのひれいによくしなければいけません。毎朝日参しよります、まぁそれは有り難い御理解を毎日頂きよりますだけではいかん。ね。私はそのことを聞かせて頂いてからほんとに、まぁそんなふうに思いまして神様のおかげでここにまだ参ったこともない方達がただ「おかげの泉」を読ませて頂いただけでもう兎に角(ふじ)といわれる癌が又は、もう血(?)入れ替えなきゃならない程しのまぁ、現在医学どうにもできないような人達を助かっておる。 合楽のひれいに本気でよくされようと精進されてそして受けておられるおかげです。
 毎日日参しております。もう毎日月に何回にお参りをしますという方達がです、もしおかげが受けられんならこれはやはりだから少し自分の信心に検討を加えて頂ければいけないと思います。そういうことを神様に昨日私お礼を申させて頂いておりましたら、もう合楽にね、まぁいうならばこの水道がこう(?)もうどこにも蛇口があってこうついてるんです。それでそれを私がちょっとこう開けさせて頂いたら二、三分間ぐらい、まぁ私の頂くのですから時間はほんなこつ(?)感じがね二、三分ぐらいはじゃーと出るんです。それもあの勢いよく出るのじゃない、ないのです。こう勢いのない出方なんです。そしてちょっと止まるんです。それも又閉めると又、出るんです。
 だから合楽でごひれいが頂いておると言うても合楽のごひれいはこの程度のものだと、と神様が私に教えて下さったんだと思うんです。ですから蛇口を閉めればそれそこ、じゃーと勢いをここ出て必要のだけは必要に応じて頂けれるようなごひれいにもいよいよ輝かしいものになっていかなければならんと改めて私も思わせて頂いたんですけれども。ね。又、それをいよいよ私の信心、精進にも勿論ですけれども。ここでご縁を頂いておられる方達がです、なら川上さんのようなもうそれこそ何ですからね。もう六に、もう七年目でしょうか。福岡から日参されるようになって、おかげを受けられてしかもそれがもう日々生き生きしたもうほんとに毎日毎日いわば、バス電車の中で示現活動に参画させて頂く。自分で「おかげの泉」をあげられた方達だけでもどのくらいでしょうか。ね。もう必ず一冊雑は鞄の中に入れておいて話を聞いて下さる時にはこれを読んで下さいというような(?)いうならば生き方です。
 皆さんどうでしょう。「おかげの泉」皆さん何冊、(?)ぐらいおもってになっておるでしょうか。自分だけでもまだ求めてない、自分だけでも読んでないという人がありやせんでしょうか。ね。結局ね、勢を現すということそいうことだと思うんです。ね。そういう精進がなされるそして、教会事態にそういう力を頂く、勢を受ける。それとこれとが(あいまって)おかげを頂いていく。
 昨日二度目の手紙がビリグイから参りました、ブラジルから。もうほんとに始めの手紙はもう兎に角もう一分一厘間違いのない神様の働きの中に、まぁ例えと申しますと飛行機で下りたところ、下りたところが土砂降りだったそうです。三回かのこう乗り換えしまえませんのでしょう。それにもう下りて、バスに乗って向こうの飛行機に乗り換えた又、土砂降りといったようなお繰り合わせの中におかげを頂いて、あちらへ参りまして十九の今月の一日の日にあの御大祭をいわゆる、教祖大祭を仕えております。ね。
 おかげにもまで二年間も開けておったからもうお参りはあるよ、あってはあのいなかったんですけれども、まぁ先生が何日目かにだから御大祭を仕えたわけですけれども。まぁ、子供まじくりでございますけれども、五十名余りの参拝者があったと。もう朝は土砂降りでしたけれども、お祭の時にはおかげを頂いて、もう大変涼しい中で御大祭を仕えることができたと言うて来ております。ね。正しくやはり合楽のひれいです。
 あの何か(えんせき)をもっていっとったそうですから、それをな模様をとりましたと。で、こちらで現像できませんからこちらで現像してこちらの模様を見て下さいというようなものも昨日はあの、私久富先生がぬけとったんでしょうか。あの久富先生当てにそれを送ってきとるということでございます。
 まーだ行ってから何日目。ね。それこそ遠い南米の地にも合楽のひれいがそういうふうにして輝いておる。まぁ、誰でも行ってなら輝くかというてそうじゃない。それは末永先生が行っておるから輝くのです。ね。ここでそんならごひれいが立っておるからというて誰も彼でもおかげを頂いておるということじゃないのです。
 結局ここで頂く人達いうならば、力です。ね。それはここで言われておるなら「おかげの泉」をという本が出ております。ね。一扉に書いてあるように、少なくても十回は読み返して下さいと。普通の新聞雑誌のようにただ読み捨て的なものであってはいけません。「おかげの泉」がね、いわゆる看板だけ「おかげの泉」であってはなならないと思います。誰でもがおかげが頂けれる(?)と思うから少なくても十編は読み返してくれ。
 だから遠隔地で参って来たこともない人達はそれを実行しておるに違いないのです。そして今も、医者が見離して、いうならば梅山先生ところのお教会でそういう次々と不思議なごひれいがいわゆる、「おかげの泉」によって立っておるという事実をね、お互いがもう一遍頂き直してね。ただ合楽にお参りをしておるだかじゃなくて、それを頂くための手立てがなされておらんのじゃないでしょうか。ね。そのおかげを頂けれるいうならば、教えが行じられておらんのじゃないでしょうか。
 いかにごひれいが立つというてもね、それが行われない限りやはりおかげは頂けないということであります。神様の目からご覧になればこうしておかげを頂いておるかのようにあるけれども、成る程水道設備だけはもうできたけれども。せめても一、二分ぐらいさっとここ出てから(?)が止まってしまう。これはいうならば、ま-だ神様がね、横にいうならば故障があるといったようなことじゃない。水田地にはもうそれこそ沢山のいうならば、お恵みの水はあるのだけれども。
 神様のひれい勢いというものはその勢いの内容で少々出るぐらいでしかも二、三分もうしたら止まるといったようなところでおかげを頂いておられる皆さんなんですけれども。ね。それでもならそれだけのおかげは受けておる。神様の目からご覧になれば、そのぐらいなことだろうけれども。神様が許されてほんとにあの勢いをこう水が出るようなおかげを頂けた時に致しましてもそういうことになりましてもなら頂く者の受け物が悪ければおかげは漏るぞということになるのじゃないでしょうか。ね。
 一つ皆さんあの、遠隔地の人ですらがですよね、合楽の御造営と聞いていうならば御造営に参画しよう、してもらえる。ましてや、合楽にご縁を頂いた合楽の信者でございますという人達がです、いうならば合楽いうならば御造営に参画せずにおられないというものがね。そういうものができてこなければ合楽のひれいによくすることはできんのです。
 昨日桜井先生がお知らせを頂いておりますのに、●2【御造営のあの本館の方の屋根が大体(?)(?)けれども、お知らせを頂いたのは瓦葺きになっておる。はー、これは(?)であったはずのですが、どうして瓦に(?)じゃろうか。というお知らせであったということです。】どういうことじゃろうかねと言うて、ここにお伺いしよったら神様にお願いさせて頂きましたら●2【共演する気になれ】と、神様は仰るです。例えばここでは大きな合楽理念、示現活動に参画するといったような映画なら映画ができておるわけです。ならその主演役者はならまぁ、私と致しましてもですもうです(?)であり、いや本当言うたら(?)である。ね。
 たら昨日研修の時にいわば何十人の修行生の先生方に話したことでしたけれども、ね。あんた方はこうして大変なまぁ、合楽としてはね、六億七億もうかかろうかというような大事業に取り組んでおるのだから、皆さんは、あーもう親先生のお徳でできるといったような簡単な思いで祈りにも修行にもそれに参画しておらんといったようなことがあっておらんかと。どのようなかと。参画しておるかと。自分はその合楽教会長が主演ならば(?)役者として、いや又は、もう共演しておるような気持ちでというて、私は甘木の初代のお話をさせて頂いたことでした。ね。
 小倉の桂先生がいうわば御本部の御造営に当たられた。もうそれこそ何回も何回も失敗を繰り返された。ね。一番広いのはもう(きゅうざい)を(?)何台というてつみ、積み込んだ積み込んだもう明日はその木が本部に向って進むという前の晩にそれが全部(?)するといったようなことが起こったんです。もうそれこそ自分では出社の教会にはもうそれこそ金をくれ金をくれという丸遅れ電報ですから。もうその度に三井教会の初代何かはもう(?)(?)とさえ思われたというくらいです。まーだ布教に出られたばかりです。そのお金があるはずがない。けれども(?)からそのまる遅れまる遅れという電報が来る。もう、もうそれこそもうあの断食を始められてね、そして神様にお願いをしておかげを頂けん時にはね、そのままいうならばもう(?)してもよいというぐらいない決心をされた時に神様から(?)総代のにおられたところに尋ねて見ようというみ教えを頂かれて、もうそれこそ、もうそれこそ重い足を引きずるようにして(?)。(?)信者の家に金を借りて(?)とても取次ぎ者としてできることじゃないのだけれども。兎に角まぁ、そのおい出られた。
 そしたらあの星野教会の初代教会長の御親戚のところでございました。そうですかね。それで言われたらあの先生がそんなことをもうそれこそまぁ、話されましたら、それこそ(?)出てきて下さいました。兎に角今からここの田舎の信者を、を集めます。あのような田舎から大変お参りがあっておりましたもんね。信者を集めますから折角の(?)ですから、ならお話の一つもして下さいと言うてまぁ、(?)(?)大変のご馳走を作って親先生に(?)(?)。そのことはね親先生は全部日記に書いてあるんです。このことは生涯忘れられんって書いてある。ね。そしてまぁ、親先生の願いである願いも聞かれてその日をおかげを頂かれたというような、まぁそういう時代なんです。ね。桂先生だけが主演じゃない。その出社ももうそれこそ命がけでそのことに奉賛されたということ。
 あの親先生が今もちょうど御本部ご修行を(?)自分の時だったそうですが、あの御影橋の(?)何とかがわちいうですね。毎朝あそこでその水氷を(?)いう話が残っております。ね。桂先生だけが主演じゃない。桂先生についておるる全ての人達が一生懸命であった。ね。だからあなた方はどうですかと。何十人の修行生がおるがね、いうならば私はそれこそ勿論自分の力があるのじゃないから神様におすがりする他にないですけれども、ならおすがりをするその姿勢なんです。だから親先生が、まぁ一生懸命すがっておられるだろうだから自分達もそれこそ一修行させて頂いて合楽いうなら建設の願いの成就を祈らなきゃならん。そんなふうに思わんかと。ね。
 いや、桜井先生が頂いておるのはね、共演者になれというお知らせを頂いたと言うが。皆も共演者とまではいかんでもいうならばね、早くも一役人ぐらい立たせてもらう。(?)者ぐらいならせて頂けれるような気持ちがあなた方がいうなら力を受けることになるのじゃないだろうと言うて話しましたが。これは修行生だけのことではありません。合楽にご縁を頂いておる皆さんがね、ああいうまぁ、合楽としては大変な大事業に取り組んでおるのですからね。それこそ祈りもさることながら修行もさることながらね、一切の上にもそれそこ身を削り心を削りしてでもそれに奉賛するというような生き方が合楽にある一つのごひれいにいうならばね、よくすることになるのじゃないでしょうか。ね。私皆さんが命がけでそのことに取り組まれる、いうならば値打ちのある修行だと思います。ね。
 今日はそこのもりもり力によって人が助かるとか(?)とかというようなこともそのひれいが違うって。どこの教会、どこの金光様とこう言うけれどもね、助かる助からんがありますけれども、それはもりもりのちからだと仰るが今、合楽でおかげを頂いておるそのおかげはです、ね、全然お参りをしたことのない人でも合楽のごひれいにいうならより動かされれるにしてね、わずかですけれどもこれは御造営のにお供えして下さいと。合楽の「おかげの泉」をいうなら、読ませて頂いてそれこそ医者、現代医学ではどうにもできないような病人が次々を助かっておるという事実。それはそのまま合楽のひれいだと。ならそのひれいにお互いもよくさせてもらうためにです、私共はね一つ(?)させてもらわなければならんと。
 今日の九十二節の御理解には少し離れたようですけれども、ね、合楽でおかげを受けておるいうならば、ごひれいが立っておる。そのごひれいに皆さんもそのごひれいによくして頂きたいと思うのです。どうぞ。